歌舞伎の成り立ち

慶長三年、八月一代にして日本の統治者となった豊臣秀吉が亡くなった。 秀吉は華美を好んでいたので、北野大茶会、醍醐の花見などのイベントを 実行した。その翌年秀吉の神霊をまつる豊国大明神が完成した。この神社 の建立には徳川家康の台頭を牽制する秀吉の旧臣たちの政治的ねらいがあり、 それを逆に利用するかたちで家康が「豊国まつり」を盛大に開いた。 慶長八年の出雲の阿国の登場は、まさにそんな時期であった。 出雲大社の巫女というふれこみで、京都五条あるいは三条や北野神社で興行 したのが爆発的な大当りとなったのである。だが、十八年になると、阿国一座 の消息はぱったりと絶えてしまう。その後阿国の人気にあやかって、女歌舞伎 の一座が輩出した。その人気に便乗したのが六条三筋町の遊廓の楼主たち だった。かかえの遊女たちに男装をさせ、四条河原にこしらえた舞台で芸を みせて人気をあおった。しかし、この女歌舞伎は風紀上のトラブルがつづいた ことから、いっさい禁止される。

つぎに、若衆歌舞伎の時代である。少年の芸を好む風習は古くからあったが、 女歌舞伎の禁止によって若衆歌舞伎も風俗的には女歌舞伎とかわりなかったので 若衆歌舞伎も禁止されてしまう。その後、延宝、天和、貞享と年号が移っていく 三十年ほどが野郎歌舞伎の時代である。若衆の前髪をそり落として野郎あたまに なった役者(男性)だけで芝居が演じられるようになった。

元禄時代に入ると文化芸術が盛んになりこの時期が歌舞伎の第一発展期になった。 その後人形瑠璃の移入と音楽の導入により変化していった。こうして安永、天明を へて寛政にいたる十八世紀が歌舞伎の完成期となる。

明治になると歌舞伎座が開場したり文明開化にあわせるかのように洋風の劇場に つくり変えられたりガス灯をつけたり、政治家や官僚に近づき、政治の老化路線と 結びついて、歌舞伎の地位向上をはかった。大正時代はルネサンスの時流にあわせて 文芸的新作をつぎつぎに生み出した。明治中期から歌舞伎の脚本を座付狂言作者 ではなく外部の劇作家が提供するケ−スが増えていったのである。これを「新歌舞伎」 とよぶ。

第二次大戦後は、傾向がかわってきているので「新作歌舞伎」といって区別 することもある。別に「ス−パ−歌舞伎」も生まれた。現在「国際化の時代」 といわれるなかで、歌舞伎は日本を代表する古典演劇としての声価はいちだんと 高まっている。明治以来、古典化は進みその様式の特殊性は諸外国でも高く評価され 今日にいたっている。